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日本人の精神構造についての考察 その8 (「空気」とえせ「民主主義」)

この原稿は隔月刊誌「ぴゅあ・しもん」に現在連載中。
単行本で、「元気になれば病気は直る」シリーズ続編として出版予定やったけど、世の中の時期が迫ってるので、
著作者権限(笑)で、「ぴゅあ・しもん」編集者に無断で(爆笑)転載する。

著作権は嫌いなので主張しないからコピペ自由。
ネタに使うのも自由。
ただ、著作者の名前を使った改編だけはしないでね。
改編するときは(mixiであっても)、改編者の著作として発表すること。

それと引用する人やネタに使う人、JASRACとは契約しないでね。

他の著作の一部は以下にhttp://www1.interq.or.jp/~mrkykngn/index.html
http://www8.plala.or.jp/puresimon/7kaisya.htm

このシリーズにはシリアルは入れないでおこう。

では第八回

日本の『規範もどき』である『空気』について話をしている。

日本の 『規範』 つまり 「善悪」 は、その場の『空気』によって決まる。
そして『空気』というものは、その 「善悪」 を諮ろうとしている人間集団の多数決で決まる。

そしてこの多数決は暗黙の了解で決まってしまうという、
世界では希にも見れない特徴を持っている。

この特徴が日本の自殺者や過労死者を増やす原因なのだ。

だからこそ『空気』の性質をしっかり理解する必要があるのだが、
前回にも言ったとおり「『空気』は集団妄想の産物」なのだ。

『妄想』は唯一の真実。
『妄想』は正しい。
『妄想』に疑問を抱くような根性であれば、それはすでに『妄想』ではない。

『妄想』を疑うことは自己の崩壊なのだ。

『空気』つまり『妄想』を理解するという作業は、『空気』を客観的に観察することである。
客観的に観察するということは、『空気』を疑うことに他ならない。

しかし『空気=妄想』だから、『空気』は絶対だから、『空気』を疑えばバチが当たる?から、
日本人が『空気』を理解することはとても難しい。

だから日本の意思決定の特徴を理解するためには、
まず西欧の意思決定をちゃんと知っておく必要がある。
回り道をしなければ真実は見えない。

アメリカに負けた戦後生まれの私たちは、
小学校の学級会(ホーム・ルームともいう。)で
アメリカ式の政策決定プロセスをママゴトして育った。

ママゴトしてたらそのうち覚える。
GHQはそう思った。

しかし戦後教育の結果、
日本の意思決定方法は
アメリカの想定した意思決定方法とまるで違う化物になってしまった。

そもそもGHQ(占領軍総司令部)は日本をアメリカ式に作り変えるはずだった。
アメリカ式の意思決定はまず論点を定めることから始める。
学級会では「議題を決める。」という。

なぜ論点を決めるかというと、論点とは争点でなければならないからだ。
議決集団の各自に意見の相違がなければ議論する必要はない。
意見の相違がなければ即実行すればいいからだ。

そう、西洋では「意思決定は行動を決定するための単なる手段」に過ぎないからだ。

争点ではない、つまり意見の相違がないにも関わらず議論するのは
時間の無駄なのだ。

だからまず思いつく限りの問題提起をしてみて、
各個人が個人のしての意見を個別に表明することから始まる。

もちろん意見とは「是か否」の二択であり「どちらでもない」は否である。
「全員が是」か「全員が否」であれば議論は不要で、即実行。

是と否に意見が分かれたときに、
各自が自分の考える「是」の立場から、
または自分の考える「否」の立場から、
意見を表明しあうことになる。

これを「討論=ディベート」という。

「討論」の目的は、反対意見を持つ個人を自分の意見に転向させることにある。

例えば、Aはその「争点」について
この集団に「是」の行動を行なわせしめたい、と思っている。

しかし意思決定は多数決だ。
多数決の決議をするまでに
できるだけ多くの「否」の議員を転向させて「是」に投票させなければならない。

「否」の人の意見を変えるには、
その人が依っている論者の主張の内容が間違えていることを、
議会の公の場で証明しなければならない。

証明は論理。
論理は理(ことわり)。
AがBでありBがCの時、AはCである。
これが論理。

自分の論理に矛盾があることが見つかれば自分の負け。
見つからなければ自分の勝ち。

相手の理論矛盾を見つければ自分の勝ち。
見つけられなければ自分の負け。

これが西洋の「討論」。

「討論」は話し合いではなく勝か負けるかの戦い。

ひとつずつの争点について
「是」か「否」か、二つにひとつ、
勝つか負けるか
黒か白、
グレーはない。

黒と証明できなければ白。
限りなく黒に近いグレーでも、黒でなければ白。

正しいか間違いかは論理が通っているかどうかだけで評価される冷徹なゲーム。
これが「討論」のルール。

そして議員は「自由意志に拠ってのみ」、
自分の意見を「是」か「否」の二者択一で投票する。

党議拘束などはルール違反。

複数の争点をまとめて議決もルール違反。

投票の採決の結果の多数決の結果で、集団の意思が決まり集団の行動が決まる。

決議の後になって、
少数意見者や転向者が非難されたり、
ましてや村八分になることはあってはならない。

論理は論理、人格は人格。
これが西洋の意思決定方法。

学級会から株主総会、裁判にいたるまで、すべて同じ意思決定方法。

さてこれが日本では?

まず議題は争点でなくてもいい。

対立することは「悪し」。
議事に入る前に「話し合い」で解決する、これが「善し」。

争いは避ける。
揉み消す。
隠して、なかったことにする。
これが「善し」。

逆に全員賛成の論点を議論して議決する。
争点でもないのに時間の無駄、とは誰も言わない。

さて今度は議論の内容。

自分の意見には自分の憶測と感情いっぱい、テンコ盛。
客観的事実と主観的憶測をミックスしてても、
全体的に感覚的に説得力があれば、
そんなの関係ない。

お互いが主観と客観ミックスで話をするから、論理なんかの欠片もない。

相手の論理の破綻を指摘しようにも、
自分の主張に論理がないから、
下手に突っ込むと返り討ちにあうから、
お互いに会議では、公の場所では、
相手の論理の破綻を指摘しないのを「礼儀」としている。

三段論法?
そんなのとんでもない。

「理屈を言うな!」
「大人気ないことをするな!」
と言われるのがオチやし、
下手したらみんな理解でけへんし・・・

論議の目的は、

相手を論破することではなく、

話し合いの中で落とし所を見つけること。
「是」と「否」の間に解決を見つけること。

裁判ではなく調停。

白黒はっきりさせると「角が立つ」、これは「悪し」。
あえてグレーにしておく。
玉虫色に染めるのもこれは「善し」。

討論によって相手を転向させることなどありえない。
そんなことしたら相手に恥をかかせることになる。

相手の意見ってのはその人の『拠所=アイデンティティ』だからね。
拠所を否定されるんだから、怒って臍曲げるから後が面倒くさいじゃん。

もし転向なんかしてしまったら、
その人は裏切り者扱いされて社会的信用がなくなるからね。

それに派閥の親分の言うこと聞かなかったら村八分か島流し。
たかだか議論でそんなことになったら相手の人に申し訳ないでしょ。

どうせ個人の自由意志なんて尊重されないんだし、
いくら力説したって、個人的に投票で転向したのがバレたら派閥から報復されるし。

それなら初めっから追いつめずに、
恩を売っておいて、会議の外で協力させたほうがずっといい。

だいたい議事進行役は、「是」と「否」の議案をセットにして議決するから、
むやみに「否決」もできやしない。

どうせ、議決される案などは、
玉虫色で現場の判断でどうにでも変えれるんだから、ムキになっても仕方がない。
所詮会議なんか儀式だもん。

葬式や結婚式と同じようにつつがなく終わる、これが「善し」。

大事なことは、会議の前に話し合いで決まっているし、
揉めたら中断して夜のうちに決まる。

日本における多数決なんか、お互いの忠誠心を表明するセレモニー。

話し合うことそれ自体が目的だから、会議で決めても行動には結びつかない。

どうせ現場の判断が議決を無視して暴走するに決まってる。

だからたかだか会議じゃないの、そんなにムキにならなくってもいいでしょ?

それにもし自分が少数意見だってことがみんなにバレたら僕自身が村八分だよ。
自分の意見なんて言ってしまったら大変なことになるから、
会議の前に多数になるだろなって推測できる意見を、
みんな一生懸命探ってるのよ。
これが日本流の多数決。

どう?西洋の多数決とは形だけ似てるだけで、まったくの別モノだとわかるでしょ?

続く (原稿のストックはここまで。二ヶ月に一編のペースで続きます。)
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日本人の精神構造についての考察 その7 (やっと「空気」の正体)

この原稿は隔月刊誌「ぴゅあ・しもん」に現在連載中。
単行本で、「元気になれば病気は直る」シリーズ続編として出版予定やったけど、世の中の時期が迫ってるので、
著作者権限(笑)で、「ぴゅあ・しもん」編集者に無断で(爆笑)転載する。

著作権は嫌いなので主張しないからコピペ自由。
ネタに使うのも自由。
ただ、著作者の名前を使った改編だけはしないでね。
改編するときは(mixiであっても)、改編者の著作として発表すること。

それと引用する人やネタに使う人、JASRACとは契約しないでね。

他の著作の一部は以下にhttp://www1.interq.or.jp/~mrkykngn/index.html
http://www8.plala.or.jp/puresimon/7kaisya.htm

このシリーズにはシリアルは入れないでおこう。


では第七回

その『規範』の話を延々と続けている。

前回は日本以外の文化での『規範』を説明した。

なぜ日本以外か?というと、
何と言っても日本以外の『規範』はシンプルで判りやすいから。

日本以外では、その社会(コミュニティ)に属する人々が、さぁここからが大事、

「時間」「空間」「状況」に関係なく、
「いついかなるときでも」「同じ」行動パターンを取りたくなる

という「心の拠り所マニュアル」を 事前に 明文化 していて、
現実に人々はその行動を行ないそれが『正しい(=正義)』と信じている。
これが『規範』
これが法律。

対して日本文化では?

日本の文化は状況判断の文化。

「その時」「その場」「その状況」「そこにいる人」で
『正しい』行動が猫の目のように変わる。

日本人は 幼い頃から 「その時」 「その場」 の 「その状況」で、
そこに 「誰がいる」 から 「こういう行動をとる」

(これを『空気』を読む、と呼ぶ)

のが 『当たり前』 という

想像(=妄想)を働かせる ことを求められ慣らされてしまってるので、
この思考行動様式が 「世界的には特殊なもの」 とは 誰も気がつかない。

日本文化には
「いついかなるときでも」「同じ」行動パターンを取りたくなる という
固定した「心の拠り所マニュアル」、なぁんてものは 存在せず、

その時その場その状況限りでの『正しさ』が、
まるでカゲロウ(影朧の字を当てたい)のように虚(うつ)ろう文化なのであぁる。

この「虚ろう正しさ」を『空気』と呼んだのは、今は亡き山本七平氏。
ペンネーム「イザヤ・ベンダサン」の名著「空気の研究」やった。

「空気の研究」で山本氏は、

日本人にとっての『規範(=正義)』は、

「その時、その場、その状況で、その場にいる人達が醸し出す暗黙の強制力」であり、

「それ」にはその場に居る誰もが逆らえない「もの」であり、

存在するが実体のない「もの」で、

『空気』としか呼びようのないものだ、と喝破した。

そやけど『空気』の正体には言及しないまま世を去った。
ここで河井がこの日本文化の絶対者『空気』の正体を顕(あきら)かにする。

『空気』というものは「その時」「その場」「その状況」に集った人達のみを支配する。

つまり「集った人達」が、その時その場その状況で創り出している「何か」なのだ。

なんともつかみどころがないので、ここに補助線を引いてみよう。

補助線1 は 
「日本には絶対神がいない。」 
である。

絶対神が「あれをしなさい。こうしなさんな。」と命令しないから、
日本の文化は人間の思うがママの文化であぁる。

人間が第一。
神や仏よりも人間の方が偉い。

所詮は人間の文化だから、
人が集まると、その構成員が論じる論理の整合性なんかより、
構成員の社会的な地位が重んじられる。

これを「親が白と言えば、黒でも白。」と言う。

これとよく似ているが
「神が白と言えば、人間の目に黒に見えてもそれは間違いで、真実は白。」
というのとは全然違うのでお間違えなく。

神の超越した卓見ではない。
所詮は同じ人間どおしだから真実を見る力なんぞはドングリの背比べ。

その中での社会的なステイタスで
事実と論理をすっ飛ばかして、
恣意的(ほしいまま)に善悪が決まる。
これが補助線 1。

補助線 2 は
「所詮は人間どおしの社会。ステイタスが同じなら、基本的には多数決」。

神が示してくれる絶対的な『正しさ』がない文化だから、
何を決めるのも日本では昔から多数決。

聖徳太子の一七条憲法、大化の改新大宝律令、御成敗式目。

でもそんなの関係ない、あぁ村には関係ない。
村には村の掟があって、村の『寄り』こそ総てを決める。
村人寄り合い総てを決める。
共同体は民主主義。

全員一致の建て前あれど、従わなければ村八分。
恐怖を基(もとい)の多数決。

明治維新で文明開化、毛唐に負けじと近代化。
殿様なくなり役場ができる。
でもそんなの関係ない、村には関係ない。

学校に、明治陛下の御真影?
天子様など誰もが知らぬ。
知らぬを知らしむコマーシャル。

昭和になってのホンの一時だけ天皇万歳で
白人相手に喧嘩を売ったので、
マッカーサーの進駐軍が
「天皇の天皇万歳専制政治だったから日本は手強い。」
と勘違い。

「民主主義と多数決が『正義』なんだ!」
と日本人に教え込んだ。

時の絶対権力者からお墨付きをもらったおかげで、
戦後は

「神のいない、村のの身欲保身による多数決」

が、絶対的『正義』になってしもた。

これが補助線 2。

補助線 3 は「自己主張を良しとしない文化」。

いろんな意見が主張され、意見に意見が対立し、
論者と論者が敵対し、丁々発止と論戦されて
最終的には多数決。
これが西洋の民主主義。

でも日本では、

多数決のくせに意見を言ってはいけない、

という西洋ではとても考えられない論理的矛盾。

「夫婦は空気のようなもので、いつもはお互いに意識しない。
だから愛していると言ったことはないが、心から愛している。
わかってほしい。」

と外国人に言っても

「愛してると言葉にせずに、どうして他人に愛しているという気持ちが伝わるの?
自分の責任を果たさずに相手に一方的な理解を求めるなんて、
卑怯以外の何物でもないわ!」

と言われるのがオチ。

でも日本人はこれが当たり前と思っている。
そう、言葉がなくても思いが伝わる、腹を割ったら総てが伝わる。
日本だけの珍しい現象、これが補助線 3。

さぁ補助線も引き終わった。
これから『空気』の正体をばらそう。

その時その場その状況に集った人達が
どうやって『空気』を醸し出して、
その場を支配する力を与えるのか。

なぜ集った人達は『空気』に逆らえないのか。

なぜわざわざ『空気』を読まなければならないのか。

まずその時その場その状況に集った人達は、
それぞれ、その状況に対して自分なりの意見を持つ。
当然のことである。

でもここからが日本独自の論理構成。

彼らは自分の意見を口にしてはいけないのだ。

なぜなら、もし多数決を取ったあと
自分の意見がが最終的に少数意見であったならば、

自分の意見が否定されるのみならず
全人格が否定され村八分にされる!

という現実的恐怖が 彼ら一人ひとりを支配するからだ。

神は 事前に罪を設定し 人を罰する。
西洋の裁判は神を真似た制度。

しかし日本には神がいないから、
神の代理人はいないから、
絶対的上下関係がないから、
人が人を裁くことができない。

事前に罪も設定できないから 全部 事後の多数決。

人間どおしだから、
人は相手の全人格を否定し、
自らより低い地位に貶めて、
差別して虐(いじ)めたおすのだ。

共同体から逃げ出せないなら 村八分は無限地獄。

だから彼らは
自分の意見をはっきりと明言することなく、
集った人達の多数意見は何かを必死になってうかがおうと
思考し行動を始める。

「嫌ですわねぇ、奥さん、どぉ思われますぅ?」
「本ぉん当、そぉですわねぇ、でも向かいの奥さんはどぉ思ってらっしゃるのかしら?」
「いえ私もね、こんなことは嫌なんですけど、主人に聞いてみないと。」

などという本質を無視した不毛な会話で皆んなが想像たくましく、
たぶんこれが多数意見だろう、という所に話がまとまって行って、
いつのまにかこの集団の中だけでの想像の中での多数意見が形成される。

間違えても問題の本質を突いてはいけない。
そんなことしたら自分の意見が他人にバレてしまうじゃないか!
自分の手の内はけっして見せてはならない。

自分の手の内を悟られないように、
全員がどんな上がり方をするかを想像して
多数に入ることを争う
陰湿なゲーム。

意見を戦わせてはいけないから、
自分の想像範囲を越える意見など思いつくこともないままに、

たぶんこの人もこう思っているじゃないのかな?
その人もこう思ってるだろうな、
あの人もこう思ってるに違いない!
そうだ、みんなこう思ってる!

という「思いこみ(=妄想)」が形成され
共有されてゆく。

思いこみでも多数は正しい。
事実でなくとも多数は正しい。
論理がないから多数は正しい。
神がないから多数は正しい。

この共有された妄想がその集団を支配する。

この集団妄想こそが『空気』の正体なのだ。

妄想を持つ者が、
その妄想が絶対に正しい、
と思い込んでいるところが
妄想の妄想たる由縁である。

自分の考えはもしかしたら違っているのではないか?
と揺らぐようなあやふやな根性では
それは妄想とは呼ばない。

妄想は「真実」。
妄想は「正義」。
妄想こそ「拠所(アイデンティティ)」。
妄想こそが自分自身なのだ!

妄想は違う意見を認めない。
妄想は違う意見を否定して攻撃する。

自分の中で違う意見を認めたら
「自分の拠所」が崩れてしまうからだ。

一人だけの妄想でもこれだけのパワーを持つのだから集団妄想の力は恐ろしい。

同じ妄想を共有する妄想集団にとって、

集団妄想は絶対的「正義」、
集団妄想は絶対「善」、
集団妄想は絶対的「真実」。

これが『空気』の正体であるから、
誰も『空気(=集団妄想=狂気)』には逆らえない。

いったん集団妄想が形成されてしまうと、
妄想集団の『空気』を読めない者は村八分になり、
貶められ虐げられイジメられることになる。

これが神のいない人間だけの平等社会、
ヒューマニズムの国日本の、
過酷な社会病理なのだ。

続く

日本人の精神構造についての考察 その6

この原稿は隔月刊誌「ぴゅあ・しもん」に現在連載中。
単行本で、「元気になれば病気は直る」シリーズ続編として出版予定やったけど、世の中の時期が迫ってるので、
著作者権限(笑)で、「ぴゅあ・しもん」編集者に無断で(爆笑)転載する。

著作権は嫌いなので主張しないからコピペ自由。
ネタに使うのも自由。
ただ、著作者の名前を使った改編だけはしないでね。
改編するときは(mixiであっても)、改編者の著作として発表すること。

それと引用する人やネタに使う人、JASRACとは契約しないでね。

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では第六回

『規範』と『アグレッション』について延々と話している。

『規範』というものがとても判りにくいので、今回は『規範』の話。

『規範』を似たような言葉に置き換えると、哲学の共通語であるギリシア語では『エトス』やろ。
『エトス』というものは『行動を規定する総ての要素』と定義されてる。

心理学用語で言うと『スーパー・エゴ(超自我)』なんやんやけど、
まぁどっちにしても言葉だけやったらよう判らん。

実際の例を挙げていく方がたぶんまだ判るやろ。

あの史上最大のヤラセ、9・11同時多発テロで
すっかり悪名高くなってしまったイスラム教徒やけど、
『規範』を学ぶにはとても判りやすい教材なんや。

イスラム教徒とは、唯一無二の絶対神アラーが預言者マホメッドに語らせしめた
「天国に行くための日常生活のHowTo集」コーランを「実行する」人達のことである。

宗教だから信じていればいいのでは?という声があるかも知らへんけど、
ことイスラム教においては「実行しない=信じていない」ということなんや。

なぜならコーランいわく
「この書に書いてある通りに行なえば、裁きの時に必ず天国に行ける。」
と断言しているからであぁる!

逆に言うたら「口でアラーをいくら信じてるて言うても、
コーランを実行せぇへんかったら天国に行かしたらへん!」
とアラーは言うてるていうことなんやわ。

「アラーは何時でもお前等人間を監とるさかい、ワシに判るように行動で示せ。
ちゃんと出来てたら天国行かせたるわい。」。
これがイスラム。

日本人からしたら「なんちゅう堅ッ苦しい神さんや!?」てなもんやけど、
そこがアラーのアラーたるところ。

約束(契約)を守れていうンやったら、
守ったか守ってないか判らへんような内容やったらあかんから、

日常生活のあらゆるシーンにおいて懇切丁寧事細かく、

「こういう時はこれが正しい。」
「あんな時にはこれは間違い。」
「そんな時にはこうしなさい。」
「どんな時でもこうしちゃいけません。」

と指示している。

初めてイスラムの社会に住むことになっても、
コーランさえ理解していればご近所付き合いから何からなにまでパーフェクト!
コーランさえあれば生活には困らない。

これがイスラム教徒。

イスラム教徒の行動を規定する唯一無二の要素、それがコーラン。
イスラム教徒にとってコーランは唯一無二の『規範』。
イスラム教徒にとって『規範』というものはこぉんなにシンプル、判りやすい。

同じように日常生活にあれこれと介入してくれるありがたぁい神様は
ユダヤ教の唯一神ヤハウェ。

ヤハウェがあれやこれやと日常の『規範』を語るのは旧約聖書、特に律法の書、トーラの巻。
この書を基にユダヤ教の司祭達が解釈を重ねて作った
決め事の判例の集大成がタルムード。

タルムードさえ判ればユダヤ社会で生活が出来る。

まるでユダヤ教とイスラム教は双子のようにそっくり。

それもそのはず、マホメッド曰く
「ヤハウェはアラーのこと、マホメッドは旧約聖書が預言した最後の預言者。」。
そりゃ一緒だわな。

この二つの宗教が『規範』の宗教と言われる。

ではさて同じく旧約聖書をベースにしたキリスト教は?
みんな間違えているんだけど、キリスト教ていうのンは当時のユダヤ教の新興宗派、
キリスト派ユダヤ教原理主義。

『規範』タルムードをキリストさんが全否定。

ユダヤ教臭さがなくなったキリスト教は本家ユダヤ人からは迫害されたものの、
ヨーロッパの土着の風習と民族信仰に迎合しながら拡大を重ねて世界宗教になっちゃった。

そんでもってキリスト(が実在したかは置いといて)の言葉は
ギリシャ語とシリア語で記述された(新約聖書)んやけど、
そのうちローマでは学者以外ほとんど聖書を読めなくなってしもうた。

聖書の内容がわからなくなったローマ教会は聖書とは全ぁったく無関係な
官僚支配組織カトリック(標準的とか定説とかの意味)教会となり、
全世界に聖書を読んだことがない神父や宣教師を派遣して、
キリストの名のもとにカトリックの『規範』を撒き散らし、信徒の精神生活を支配した。

三大宗教の『規範』はわかった。

じゃあインドは?

インドは仏教国ではなく、カースト絶対身分制のヒンズー教の世界。
生まれ落ちたは前世の定め。
生まれたカーストの決まり(=『規範』)に従って一生を終わる『規範』の世界。

じゃあ仏教は?
仏教は多神教ヒンズー世界に現れた、輪廻転生前世を否定したアンチ・テーゼとして
ブッダが始めた無神論の新興宗教(?)哲学集団。

ブッダの仏教には神も仏も天国も地獄もない、現世オンリーの人生哲学。
自然界と人間の存在を合理的に説明しようとした科学的学問集団やった!

オウムで有名になった『出家』とは、生活に追われる日常を捨て、
思索と研究のために全寮制仏教大学に入学することやったんや。
三蔵法師も取教した仏教大学には厳格な校則があった。

仏教大学に入学したら『戒律』を守れば迷わず生活ができる。
これが『規範』。
これが拡大解釈されて『戒律』という『規範』になった。

庶民からかけ離れた高尚な学問性と、救いのない無神論が禍いしてインド仏教は衰退。

中国に伝搬した仏教は、ヒンズーの神々を習合した擬似科学宗教に堕してしもた。
そやけど出家して仏門に入れば『戒律』を守るという『規範』は残った。
寺に入れば『戒律』さえ守れば迷わず生活ができる。
拳法で有名な少林寺なんかがそうやね。
これが坊主の『規範』。

ちなみに『規範』を守らない坊主を『破戒(戒律を破る)坊主』と呼ぶ。
大切なことはこの『戒律』という『規範』は、出家だけが守るもので、
在家信者は守る必要はないから在家にとって『戒律』は『規範』ではない。

中国は基本的には孔子さんの儒教マインド。
儒教は支配者のための身の処し方のHowTo本。
支配者を大人(たいじん)庶民を小人(しょうじん)と言って、
儒教の『礼』は大人だけの『規範』。

では人民(小人)の『規範』は「サバイバル」。
中国は人治社会。
地域のボスの決めたことがその社会の決まり。
毛沢東の中国共産党の社会になってもいまだに人治。
ボスが代わればルールも変わる。
ころころ変わって変わる度に搾取される。

そんな積み重ねの中で培われた人民の『エトス』つまり行動基準は、
他人を出し抜いても騙してもとにかく生き延びて、
チャンスがあればいかなる手段ででも金を儲けて貧乏から抜け出して、
一族だけでいい生活をする。

だから偽ブランドでも危険な食べ物でも混ぜ物を他人に売っても、
一族さえ裏切らなければOK。
これが『規範』。

その社会に属する人々が、
時間空間、時所関係なく、いついかなるときでも
同じ行動パターンを取りたくなるという
「心の拠り所マニュアル」、
これが『規範』というものなのであぁる!

ほんなら日本ではどないなんやぁ?ということなんやけど、

残念ながら

日本には『規範』が存るようでそれは実は『規範』では無く、

と言って『規範』が無いようでもそれらしきものがちゃんと在る。

この日本独特の『規範』らしくない『規範』とはとても言えない『規範もどき』のことを、
『空気』と呼ぶ。

実は今まで話が前に進まへんかったんとか、
西洋の心理学が日本で役に立たない原因は、ひとえに日本独特の、
この「規範らしからぬ規範」『空気』のせいなのだ。

日本においてのみ、その場その時に絶対的な強制力を持ちながら

その場その時の状況で無規則に変化し、

それ自身変幻自在なので明文化もできず、

三段論法も、いや法律すら超越する!

その絶対的「規範もどき」、

その名は『空気』。

日本人なら誰も逆らうことができない『空気』の解説は次回の課題だぁ!

続く

日本人の精神構造についての考察 その1

この原稿は隔月刊誌「ぴゅあ・しもん」に現在連載中。
単行本で、「元気になれば病気は直る」シリーズ続編として出版予定やったけど、世の中の時期が迫ってるので、
著作者権限(笑)で、「ぴゅあ・しもん」編集者に無断で(爆笑)転載する。

著作権は嫌いなので主張しないからコピペ自由。
ネタに使うのも自由。
ただ、著作者の名前を使った改編だけはしないでね。
改編するときは、改編者の著作として発表すること。
それと引用する人やネタに使う人、JASRACとは契約しないでね。

他の著作の一部は以下に
http://www1.interq.or.jp/~mrkykngn/index.html
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さて本編

「元気になれば病気は直る」第五弾、たぶんこのシリーズ、「元気になれば~」は終わってしまうかも?というくらいの本質論。

いつかは書かんとあかんと思うてた、人の心の仕組みを解明する精神力動(サイコ・ダイナミクス)論。
下手したら宗教になりかねんから、ついて来れる人だけでええから、ついてきてな。

最近ニュースは神奈川県平塚市の「男女幼児遺体事件」がかしましい。
いやぁ、母親がイタコで、玉の輿で、男を取っ替え引っ替え、色、金、猟奇アーンド保身の塊、借金の取り立てに自殺未遂の警察沙汰で対抗なぁんて、こりゃもうこんな判りやすくて古典的で、まるで「冬のソナタ」のようにパンピー受けするおもしろい事件はそうそうない。
あぁ楽しい!

しかし、しかしや、この事件のおかげでものすごく大切で恐ろしい事件が葬られてしもうた。
同じ神奈川県の(茨城と神奈川は事件がありすぎ・・・)川崎市の「婦女子投げ落とし男」事件であぁる。

この事件の容疑者は事件を自供している。
事件の客観性には一点の曇りもない。
法律的には何のミステリーもない事件なんや。

ただこの事件「動機」がない。
容疑者本人も「人を投げ落としたかった、誰でもよかった。」と話している。
では精神的に異常があるのか?確かに彼は「うつ状態」で精神科に入院し通院していた。
だからといって、彼が心神耗弱状態とか心神喪失状態であるわけではない。

彼は自分の行なったことをちゃんと回想(思い出すこと)ができているからである。
通常の殺人事件や障害事件の場合、大なり小なり無我夢中で事の子細まで覚えていることのほうが少ない。

だいたいプロの殺し屋でもない限り、人を殺すなど普通にあることやない。
嬉し楽しや初体験。
嬉し楽しいことでも緊張して覚えてないのに、人殺しの最中に「ここを刺したあとは次はここを刺して」などと考えてられるわけがない。
頭の中は真っ白、無我夢中!
実際、犯人が覚えていない部分を、客観的な証拠をもって「刑事が作文」して供述調書を作るわけなんや。

そんなあやふやな「犯行時の記憶」しかなくても、心神耗弱や心神喪失は認められず、客観的証拠があれば有罪はまず確定する。
彼の場合は完全に「犯行時の記憶」が客観的に理解できるほど、完全に「ある」。
彼は心神耗弱や心神喪失などという、いわゆる『キチガイ』なんかでは絶対にない!
彼は私やあなたと同じ(よりもマトモかもよ?)「法医学的に正常な人」なんや。
彼はまったく正常な精神状態において、極めて冷静に婦女子を投げ落としたんや。

この事件の問題は「客観的事実」にも「主観的事実」にもない。
本件の問題はただ、本人にも他人にも「なぜ投げ落とさなければならなかったのか?」が理解できないことにある。
まったくワイドショー的な面白味のカケラもない、純粋な「動機なき殺人事件」である。
ゆえに精神心理的にマジメに解明しなければならない事例であった。

結論から言う。
河井はこの事例には薬害が関係している可能性を考えてる。
具体的に薬害とは『SSRI』という種類の、脳内ホルモンの『セロトニン』を扱う薬物や。

一般的に『セロトニン』は「リラックスのホルモン」と考えられている。
「考えられている」というのは、脳の神経の働きはものすごくデリケートで複雑で、さらに感情は人間でしか表現でけへんさかい、動物実験やったら言うて教えてくれへんさかい、まだよう判らへんからなんや。

正常が判れへんから、精神科の病気における「脳内の変調の具体的な仕組み」など、まぁったく!判かるはずもなく実際判っていない。
その上に「心が原因で、脳の機能が傷害されるのか?」、それとも「脳の機能の障害が原因で、心を病むのか?」、それすらも判っていない。

差し当たり、ある種類の薬草を使うと精神が変調するという発見から、手を変え品を変え、薬の「分子構造」を変えて新薬を作ってみて、使ってみたら効くか効かんか出たとこ勝負。
しょせん精神科に使う薬というものは、総てが対症療法でしかない。
かの『SSRI』もそういう薬なんや。

対症療法薬は、漫然と使わなければ、その場を乗り越えるには良い選択肢なんやけどな・・・。

さて「投げ落とし男」は、なんらかの理由で「うつ状態になったらしく」、精神科に通院して「投薬を受けていたに違いない」。
河井が「欝病」と書かへんのは、似たような症状で違う病気は山ほどあって、この主治医の診断のセンスも判らへんからなんや。

精神科は『科学』ではなく職人芸(センス)である。
例えて言うなら骨董品屋の目利きと似ている。
客観的なデーターはまったく存在せず、視診、問診が総てと言っていい。
精神科医の修業は、自らを検査機械と化して、その診断精度を上げることにある。

心理検査などは診断の根拠にはならない。
精神状態を測る機械もない。
精神科の診断治療と言うものは、完全な客観的な検査結果もなく、確立された価格的な治療法もない、化学ではなく、人文科学的なものなんや。

そやからメディア情報だけでは「うつ状態になったらしく」としか言えない。
精神科入院歴通院歴は事実だが、どんな薬を処方されていたかはまったくメディアには流れていない。

しかしながら「うつ状態」であれば、『SSRI』が処方されるのは今では必ず!と言っていい。
なぜならこの『SSRI』という種類の薬は、1983年に『デプロメール』という商品名で、副作用がなく抑鬱気分に画期的に効く「夢の抗うつ剤」という世界的なものすごいふれこみで発売され、世界中で馬鹿売れした。
類似品の『プロザック』『ルボックス』『パキシル』『ゾロフト』も発売された。
1999年に厚生省が認可するまで、日本の自称「欝病患者」が、争って個人輸入した、という代物である。

そして『SSRI』は「うつ症状」以外にも「不安症状」や「パニック障害」などなどに節操もなく使われ始めて、今では旧来の抗うつ薬は完全に駆逐され、『精神分裂病(今は統合失調症というが、精神は元々ひとつなので河井は分裂病と言う)』以外の症状には、まず間違いなく使われていると見て間違いはない!ほどポピュラーな薬になってしまっているから、「うつ状態の投げ落とし男」にまず間違いなく使われていたに違いない。

さて話は戻る。
『デプロメール』が発売されて一五年後の1994年、米国コロラド州ジェファーソン郡のコロンバイン高校で、同校生徒二人がマシンガンを乱射、生徒12人と教師一人を射殺、24人に重軽傷を負わせた後、犯人の生徒二人が自殺した事件。

この二人の少年のうち主犯の生徒は『ルボックス』を多量に服用していた。
共犯の少年も服用していた可能性も高いと言われているのだが「医学的記録が封印されている。」という、極めつけに不可解な事件である。

河井はこの情報を日本で『SSRI』が発売になるまでに読んで知っていた。
そして実際に、自殺衝動が強いという理由で、精神科の主治医から『ルボックス』と『デプロメール』を処方され服用していた河井の友人が、自殺衝動ではなく「誰でもいいから他人を殺したい!」という衝動に取り憑かれて、パニクって河井に電話で相談してきたんや。

この主治医はとても親切でセンスも良い精神科医であったのだが、「『SSRI』で自害他害衝動が高まる。」という事例を知らなかったため、この主治医に相談するとさらに『SSRI』を増やされたり入院させられるる恐れがあったので、主治医に内密で加療してこと無きを得たが、彼女が『SSRI』を完全にやめるまでには一年かかった。

やめる速さが少しでも速いと、自殺・他殺衝動や高不安状態などが沸き起こってくるので、一錠を減らすために爪切りのやすりで一日一削りずつ減量していったんや。
「無げ落とし男」事件のすぐ後、その友人の彼女から連絡があって、彼女は「無げ落とし男」が自分と同じように『SSRI』を使っていた可能性を指摘した。

一般に、刑事粗暴犯(殺人、傷害事件が多い。)現行犯犯人が精神科通院歴があることが判った場合、警察は検察庁に起訴せずにいきなり精神病院につれてきて、取り乱していた場合、普通そのまま入院になる。

起訴されなければ事件にはならないから、記者に知られることもなく記事にならない。
警察官も調書などの膨大な書類を書く手間が省ける。
例え記事になっても実名も公表されなければ、動機の詳細など精神病院のカルテの中、業務上知りえた秘密は公表してはならないので、真相は闇の中で朽ちてゆく。

この「無げ落とし男」事件は、日本における『SSRI』が原因の、「一見マトモに見える」精神変調による薬害事件が表面化した希有な事例なのだ。

続く

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